【怖い話】コトリバコとは?島根で見つかった呪いの箱は実在するのか?考察

スポンサーリンク

「コトリバコ」を知っていますか?

2ちゃんねるに投稿された怪談で、多くの人々を恐怖に陥れる都市伝説として知られています。

舞台は島根県のとある地域。偶然、旧家から奇妙な木箱を見つけた投稿者たち。それこそが、百数十年前に作られた、最強の呪物「コトリバコ」だったのです・・・。

「コトリバコ」とは一体何なのか?世にも恐ろしいその中身と呪いの効果とは?

今回は、コトリバコにまつわる怖い話と、その作り方や起源について、詳しく解説していきます。

目次

コトリバコとは?コトリバコの怖い話

コトリバコの怖い話は、2ちゃんねるの「オカルト超常現象板」で広まった都市伝説的な怪談です。

具体的には、2005年に「死ぬほど洒落にならない怖い話を集めてみない?(洒落怖) 99」というスレッドに投稿されたのが始まりです。

コトリバコとは?名前の意味

コトリバコは、一辺20cmほどの正六面体の木製の箱の形をした呪物です。

コトリバコは、恐ろしい呪殺の箱だと言われています。

呪いたい相手に送ることで効果を発揮するそうです。

箱を受け取った人は、最悪の場合、命を落とすとされています。

その恐ろしい効果は、多くの人々に恐怖を与えてきました。

また、コトリバコは、非常に残酷な方法で作られると言われています。

その製法の詳細は明かされていませんが、非人道的な行為が含まれるようです。

このような背景を持つ物体の存在自体が、人々に寒気を与えるのです。

コトリバコという名前は、一見「小鳥の箱」のように聞こえますが、実際は「子取り箱」という意味が込められているのです。

つまり、子供を取る(犠牲にする)箱という、恐ろしい意味を持っています。

特に、妊娠可能な女性や子供に対して、強力な呪いが降りかかるそうです。

あらすじ

ある女子大生Sが、解体予定の納屋で「パズルのような箱」を見つけて、友人の集まりに持ってきます。

その場に居合わせた神社の息子Mが、その箱が「コトリバコ」という呪いの箱だと気づきます。

Mは急に嘔吐し始め、父親に電話をかけて泣きながら状況を説明します。

最終的にMが不慣れながらもお祓いを行い、その場の危機を回避します。

物語が進むにつれ、コトリバコの中身や、それに関わる山陰地方の集落の壮絶な過去が明らかになっていきます。

この怪談は、投稿されるとすぐに人気を博し、サイト内の投票所で1,000票以上を獲得するなど、大きな反響を呼びました

コトリバコの物語は、単なる怖い話を超えて、貧困や差別といった社会問題も背景に含んでおり、読者に強い印象を与えました。

元ネタは2chの洒落怖

2ちゃんねる(洒落怖)に投稿された、より詳しい話の詳細が知りたい方はこちら↓↓

※「コトリバコ」を読んだことで、体調不良を訴える人が報告されています。
閲覧する場合は、自己責任でお願いします。

スポンサーリンク

コトリバコの作り方

コトリバコの作り方は、子供を生贄にする必要があると言われています。

コトリバコの中身は?

コトリバコの中身と、その恐ろしい作り方については、以下の記事で詳しく解説しています。

閲覧はくれぐれも自己責任でお願いします。

最強の呪物「ハッカイ」

コトリバコの呪いの効果は、製作過程で使用される子供の数に比例して強まるといわれています。

コトリバコは、1~8人の子供が生贄として使われ、子供の数に応じて呼び方が変わます。

「イッポウ」から始まり、「ニホウ」「サンポウ」と続き、8人の子供を使用したコトリバコは、「ハッカイ」と呼ばれています。

8人が限度で、それ以上使用しようとすると、製作者自身が制作中に命を落としたという説があります。

呪いの効果

子供の数に応じて、呪いの持続時間も比例します。

コトリバコの呪いは、時を経ても衰えないと言われており、その効果を弱めるには、神社や寺院での「安置」が唯一の手段だそうです。

最強の呪物「ハッポウ」の場合、呪いが薄まるのには、200年程度かかるのだとか・・・。

現代において、コトリバコの存在は謎に包まれています。

もし本当に存在するなら、今でも静かにどこかの神社や寺で保管されているかもしれませんね。

スポンサーリンク

コトリバコは実在する?実物は?

コトリバコの起源は、1860年代後半ごろにさかのぼると言われています。

当時、ある地域では激しい差別に苦しむ部落がありました。

その部落に、隠岐の反乱に加担した一人の男が落ち延びてきたのです。

集落の人々は男を排除しようとしましたが、男は命と引き換えに武器を提供すると申し出ました。

その武器こそが、「コトリバコ」の作り方だったのです。

箱を作るには残虐な行為が必要でしたが、部落の人々は迫害から逃れるために「箱」を作りました。

そして、最初に作られたコトリバコは部落へ差別を行っていた者達の元へ送られ、わずか2週間で多くの犠牲者を出しました。

庄屋の家の女が1人と子供が15人、血反吐を吐いて苦しみ抜いて死んだといいます。

この殺戮劇をもって、部落は周囲の全ての地域に、ある条件を突きつけました。

  • 今後一切部落に関わらないこと。
  • 放っておいて欲しいこと。
  • 今までの怨みを許すことは出来ないが、放っておいてくれれば何もしないということ。
  • これらを守ってくれるのなら、他所へ仕事に出ている部落の者も、今後そこへ行くこともしないということ。
  • このことに仕返しをすれば、この呪いを再び振りまくということ。
  • 送った箱は直ちに部落に返すこと。
  • なぜ放置するのか、その理由は広めないこと。ただ放置することだけを徹底すること。
  • この箱はこれからも作り続けること、既に箱は7つ存在していること

こうして13年間に渡り、コトリバコは作られ、使われ、最終的に16個の箱が完成しましたが、ある日、思いがけない惨劇が起こりました。

子供が知らずに、箱を家に持ち帰ってしまったのです。

その結果、その家中の女と子供達全員が、その日のうちに命を落としてしまいました。

ひとつ間違えれば自分たち自身でも制御出来ない諸刃の剣であることを、改めて思い知った部落の人間は、処分を試みるため、神社に持ち込みました。

しかし、呪いの力は予想以上に強かったのです。

かつて、箱の作り方を教えた男は「箱は年数が経つごとに弱っていくが、手に余って処分する際には必ず特定の神を祀る神社で処分すること」と伝えていました。

その場で祓えないと判断した当時の神主は、箱を分散して保管する案を提案します。

複数のグループで持ち回り、呪いが弱まるまで時間を稼ぐ、というものです。

神主と住民たちは、箱の管理方法について秘密の計画を立てました。

どのグループがどの箱を持っているか、誰にもわからないようにしたのです。

箱によって浄化に必要な年数が異なるからでした。

そして、グループの代表者は、各グループに箱を持ち帰った後に、殺されました。

こうして、「どのグループがどの箱を持ち、その箱が浄化までに何年かかるか」は、神社だけが知ることとなったのです。

現在までに多くの箱は解体されましたが、「チッポウ」と呼ばれる強力な呪いの箱が2つ残っているそうです。

2chの怪談の中で発見されたのは、その一つだとか。

スポンサーリンク

コトリバコの起源は島根県の隠岐騒動?【考察】

コトリバコの起源については、様々な説があります。

  • 隠岐騒動中に本土に伝わった
  • 出雲本土に元々存在していた

それぞれの説について、詳しく見ていきましょう。

隠岐騒動で本土へ伝わった説

コトリバコは、隠岐騒動中に本土に伝わったという説があります。

隠岐騒動は、明治時代初期に、島根県の隠岐諸島で起こった農民反乱です。

この事件は、コトリバコの伝説の背景として言及されることがありますが、実際の歴史的出来事です。

隠岐騒動は、1868年(明治元年)に、島根県の隠岐諸島で発生しました。

新政府による地租改正や徴兵制度の導入など、明治維新に伴う急激な社会変化に対する農民の不満が背景にありました。

主に地元の農民たちが参加し、農民たちは役所を襲撃し、役人を追い出しましたが、最終的には鎮圧され、首謀者たちは処罰されました。

隠岐騒動は、明治維新後の社会変革に対する地方の反応を示す重要な事例の一つとして、歴史的に注目されています。

コトリバコの伝説では、この騒動が背景として取り上げられ、当時の社会不安や貧困、差別などの問題と結びつけられることがあります。

しかし、この説には時系列的な矛盾があり、確実性は低いとされています。

騒動の詳細な経緯と、コトリバコの出現時期が一致しないのです。

また、隠岐と本土の交流の実態も不明確な部分が多いようです。

そのため、この説は単なる憶測に過ぎない可能性が高いでしょう。

コトリバコ自体は都市伝説であり、隠岐騒動との直接的な関連性は史実ではありません。

コトリバコの物語は、この歴史的事件を取り入れることで、より現実味のある怖い話として構築されたと考えられます。

出雲本土起源説

一方で、コトリバコは元々出雲本土にあったという説もあります。

この説では、隠岐騒動とコトリバコを結びつけるのは後付けだとしています。

出雲の土地に古くから伝わる呪物だという考え方もあるのです。

しかし、この説にも確かな根拠はなく、真相は闇に包まれています。

物部氏がコトリバコを作った?

なぜ島根県とコトリバコが結び付けられるようになったのか?

仮説として考えられるのが、物部氏の存在です。

物部氏は、西暦500年以降に奈良や大阪辺りに台頭し、天神系、饒速日命(ニギハヤヒノミコト)を祖先とする豪族です。

物部氏は全国におり、島根県には五世紀頃に、石見物部氏という一族がいました。

この石見物部氏は刑罰、警察、軍事、氏姓、呪術などの職務を全うする一族で、部民(べみん)制を設置したと言われています。

その石見物部氏が建立したのが、物部神社です。

この神社の祭神は宇摩志麻遅命(ウマシマジノミコト)なのですが、その父神が饒速日命となっています。

そして、隠岐騒動では脱走者が数人いたと考えられています。

隠岐諸島は、元々後鳥羽上皇や後醍醐天皇などを流刑した土地です。

その脱走者達が目を付けたのが、石見銀山にいる未亡人達です。

石見銀山で、家族で住み込みで働いていたものの、夫を病気で亡くし女子供だけになった家を狙い、さらってコトリバコの「材料」にしていたというのです。

あくまで仮説ですが、石見には呪術の部門を持つ物部氏がいましたし、物部氏の子孫と関係があったかもしれません。

ちなみに、漫画『呪術廻戦』で有名な「両面宿儺」を作ったのは、物部天獄という人物だと言われています。

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!
目次